家族の宝物
建設会社社長、T蔵さんは、私が心を許す数少ない男。
傷みの激しい我が家の修理を依頼して、久しぶりの再会。約、1年ぶり。話が弾む。
T蔵さん、お仕事のストレスが溜まり、パッと景気付けをしたかった。
それで、オリンピック前の北京でも見るべし!と旅に出る。
そして故宮博物館内の店で、紛い品の掛け軸を騙されて買い、その後始末をつけるべく行き来。ようやく念願の本物の掛け軸を購入できたそうだ。うやうやしく床の間に飾って、いまや家宝の掛け軸。
『そ〜んな価値のある掛け軸なの?』
『いいじゃねぇか。オレが気に入ってるんだっ!こう、虎に勢いがあってな、毛なんか、1本、1本描いてあるんだぞ!』
と、えばる。
へ〜ん。
私の祖父は書道を嗜む人だった。その祖父の母も、達筆。祖父に手ほどきを受けた子ども達も、そこそこ達筆。お陰で、祖母は自分の書いたものを身内にも隠すほど、引け目を感じていたというから、書にはこだわりのある家だった。
祖父母にとって、初めての孫が、遠方から遊びに来た。襖で区切られた小さな部屋がいくつもある、大きな農家の家。その薄暗い部屋の一室で、初孫のあやこねーちゃん(当時3歳)は、ひとり書道の練習を嗜んでいた。
やがてひと時が経ち、大人の前にあやこねーちゃんは、口も舌も墨で真っ黒にして、顔を出したそうだ。慌てて大人たちが、あやこねーちゃんが書道に邁進した部屋に飛び込むと、祖父が大切に飾っていた掛け軸に
『あ あ ああ あ あああああ 』
“あ”の字ばかりが所狭しと書かれていた。自分のイニシャル“あ”の字が書けるようになったのが嬉しくって、祖父に指差して得意顔のあやこ、3歳。
唾液の後も生々しく、掛け軸に並んだ
“あ”の字。
白い余白にぎっしり並んだ
“あ”の字。
祖父は周囲の大人に、子どもを決して叱ってはいけないと諌めたそうだ。しかし、相当、堪えたらしい。
祖父が寄贈した書が、少し前にお寺のどこかでいくつか見つかって、表装を趣味にする叔父が、修理して納め直したと聞いた。
母が結婚する前に祖父は亡くなり、私は祖父には一度も会ったことがないので、私は祖父の思い出話を、時折、聴くだけ。
誰も特別に大切にしていないなら、その『あ』の字の掛け軸が欲しいよ。
天国のおじいちゃんは、元気なのかな。
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